ご存知マドンナ。【アメリカのアイコン】、存在感は絶大です。いまさら…ではなく、マイケルジャクソンとともに20世紀を代表する【クィーン・オブ・ポップ】のマドンナ。今は当たり前になったミュージックビデオ(PV)をメジャーにしたアーティスト、それがマドンナ(Madonna Louise Ciccone、クリスチャンネームはVERONICA)です。
★マドンナのディスコグラフィ
デビューは1982年、ニューヨークのダウンタウンにて無名の時に作られたデモテープ「エブリバディ」をきっかけにサイアー・レコードと契約を結び、その後の正式版「エブリバディ」の商業的成功でアルバムが作られた。
ライブにはダンスパフォーマーを全世界から集め(面接はマドンナ自身)、時に日本人アニメーションダンサー<はむつんサーブ>もツアーに参加した。
驚くべき感覚は音楽センスだけではなくビジネスセンス。早くからレコード会社に見切りをつけ、2010年代はイベントプロモーションのLIVE NATIONと組みライブで稼ぐポップスターとなった。ライブネーションはマドンナとの契約を機に全米ライブの80%を占める最大手プロモーターとなった。
★マドンナの生き方
マドンナの生まれは1958年8月16日ミシガン州ベイシティ。ミシガン大中退。1978年、35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手にこの街で一番大きな場所へ行ってと言い、タイムズスクエアで降りたマドンナは「私はこの世界で神よりも有名になる」(神様と同じぐらい有名になるまで、私は幸せではない)と誓った。
無名時代には糊口をしのぐため、ヌード・モデルを引き受けたりもしている。なお、ベジタリアンとなったのはニューヨーク移住後である。ベジタリアンの先、マクロビオティックのプライベートシェフとして西邨まゆみさんを10年間起用、アメリカとロンドンの自宅で西邨さんはシェフを務めた。
結婚は2回、俳優ショーン・ペン。映画監督ガイ・リッチー。現在はシングル。実子に1996年生まれの長女ローデス・マリア・チッコーネ・レオン。2000年生まれの長男ロッコ・リッチー(親権はガイ・リッチー)がいる。そして養子に四人。デヴィッド、マーシー、エステル、ステラを育てている。
2008年度【働き者のママ】のランキングで、マドンナは2008年の推定収入が1億1,000万ドル (日本円で約110億円) で1位にランクイン。ひとりで手を焼く日本の親は彼女をよく見てください。ちゃんとしているセクシーでパワフルなスーパーママです。byフォーブズ
「なんでアルバムをもう一枚出して、ツアーをもう一回やって、フィルムプロジェクトをもう一度立ち上げなきゃいけないんだ?」と元夫のガイ・リッチーは言ったらしい。
答えは、「そもそもなぜ説明しなきゃいけないの? スティーヴン・スピルバーグに、なんでいつまでも映画を撮ってるんだって聞く人いるかしら? 彼、もう十分に成功したし、十分稼いだし、すごく有名になったじゃない?それとか、誰かパブロ・ピカソに向かって、OK、君は今歳だし、もう絵は十分描いただろ、なんて言ったかしら?」
★マドンナの魅力
彼女がアイコンになったのは、社会があらかじめ定めた役割に束縛されなかったがために、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソンやプリンスなどと肩を並べる女性スーパースターというポジションを初めて創出したからだ。
ビヨンセ、テイラー・スウィフト、レディー・ガガやリアーナは、より派手な衣装で着飾ったクールでコンテンポラリーなマドンナの代役ではなく、マドンナに成功をもたらした戦略を内面の奥深くに吸収した継承者なのだ。以前我々がマドンナに対して感じていたかもしれない腹立たしさの多くは、振り返ってみれば、非常に大きな効果を生じるものだったことがわかる。by Vogue
計算された挑発、破廉恥な言動や彼女の自己顕示は、自らの行動によって生じた結果の責任は自分自身にあるという明確な意識とセットになっていたのだ。彼女が主導して興したレコード会社マーヴェリックは、他のアーティストが運営するどのレーベルよりも利益を生み、提携するグループ会社ワーナー・ブラザースを大いに喜ばせた。
2017年1月ドナルド・トランプが大統領就任した翌日、
「トランプが選ばれたのには、それだけの理由があると思うの。つまり私たちがどれほど怠慢で不熱心だったかを私たちに見せるためだったというわけ。私たちは自由や権利を当然のことと考えていたわ。夜明け前がいつも最も暗いとはよく言ったものだわ。多分、私たち皆が団結して抵抗するために、ああいうことが起きる必要があったのよ」。
ワシントンで開催されたウィメンズ・マーチでの怒りのこもった彼女の呼びかけでメディアは大騒ぎとなった。これは単に「ファック・ユー」という挿入句がふんだんにちりばめられていたからというだけではなく、内容的にも聴衆を興奮させるものだったからだ。彼女は、ホワイトハウスを爆破しようかと考えたが、その代わりに愛の力に賭けることにしたと述べた。
「みんな、革命を起こす用意はできてる?何もかもひっくり返す用意がある?……私は愛を選択したわ。みんなもそう?」実にマドンナならではの、マドンナらしい発言に、時代と共に闘う女を演じ続けてきた彼女に時代が追いつく瞬間を見た。by Vogue
「Nasty Woman(嫌な女)」それは彼女の魅力の一部。時には人を不快にさせることも才能のうち。
マドンナの功績の一つに、ゲイカルチャーをメインストリームへ押し上げたことがあげられる。1990年初頭、NYのナイトクラブでは、黒人ゲイたちによる「ヴォーギング」と呼ばれるダンスが流行。
ハウス・ミュージックに合わせてくりひろげられるヴィーギングを『ヴォーグ』(1990)で表現。のちに自身の代表曲となる、世界的大ヒットにつながったのだ。
マドンナは昔からブラックミュージックやディスコを好み、黒人やゲイたちと親交があった。NYではアンダーグラウンドだったゲイカルチャーを『ヴォーグ』通してメインストリームへ押し上げた功績は大きい。
もちろん、デビューから今日までマドンナは一貫してゲイ権利をサポートしている。
ロシアの反同性愛法案が可決された時は抗議に立ち上がり、プライドでのパフォーマンス、グラミー賞で同性カップル結婚式をイメージ、全米同性婚のサポートなどなど、挙げればキリがない。彼女がいたからこそ、アメリカをはじめ世界のLGBT権利が前進したといっても過言ではない。
アメリカにおいて宗教はタブーの一つ。しかし、そんなタブーなどマドンナにはおかまいなし。
『ライク・ア・プレア』(1989)のMVでは、黒人聖像に救いを求めた肌をあらわにした女性(マドンナ)が愛を交わすというもの。祭壇という神聖な場所でセックスすることや、白人のマドンナと黒人の交わり、燃え盛る十字架など大きな物議をかもし、宗教団体から大きなバッシングをうけた。
バッシングは曲だけでなく、当時のCMスポンサーだったペプシの不買運動にまで発展したが、結果マドンナが曲を取り下げることはなかった。彼女は常に社会的なテーマである、宗教、人種問題、セクシャリティー、倫理、性表現について曲を通して疑問をなげかけており、この姿勢はデビューから一貫している。
曲のテーマもそうだが、流行り廃りの激しいポップ・ミュージック産業を非難し、また大手スポンサーに媚びることない女性アーティストは極めて珍しい。by 国内最大のゲイ向けWEBマガジン<ジェンクシー>
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ほかの誰も真似できないアクションで広告しています。ヴィトン…だから何?って媚びないとこが最高。その時のデザイナーはマーク・ジェイコブス。「かかってこいや! マーク」ってとこでしょうか。